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落書き。 [わたしモノがたり]

実は、卒業するまで「早稲田文学」(http://www.bungaku.net/wasebun/)なんて読んだことなかったのに、卒業後、ずいぶんたってから、「早稲田文学」を手にするようになり、縁あって編集部にお邪魔したり、新しい「早稲田文学」の動きを応援するようになったりなんかしている私。

我が家の子ども達にいつもプリンを買ってくださる編集長・市川さんは、最近、「王様のブランチ」で本を紹介しているらしい!

・・・土曜はブランチどころか、ぶらぶらランチ、な我が家なので、全然見れてないけど・・・見たいなぁ、今度録画しよう。

早稲田文学編集室から毎号送られるフリーペーパー「WB」も楽しみにしているのだが、前号からリニューアルし、「こどもWB」になって、まぁ、うちの子にはまだ早いブンガクだけど、逆に国文卒のくせして、ブンガクに疎い私としては、ちょうどいいお手頃レベルなわけです。はい。

その上、前号は大好きな重松清さんと、これまた大好きな西原理恵子さんの対談だったりして、思わず、「保存用」と「読む用」の2冊をもらっちゃったり、というマニアな行動をしてしまった。てへへへへ。

で、昨日、「WB」の最新号vol.18が手元に届き、さっそく拝読。
いやー、ほんと16Pのフリーペーパーだけど、気軽に読めるが、どっしり手応え、な感じ。

・・・これくらいで手応え感じてると「早稲田文学」読むと脳にボディーブローなんだけどね。
(そういや、来年1月に発行予定の3号は「コドモとブンガク」の特集があるらしい!必読!)

中でモブ・ノリオさんが連載しているのだが、今回、OECDで実施している学習度到達度調査(PISA)の試験のことを取り上げていたのが、実に興味深かった。

そのPISAの問題で、よくその手の話題の事例にあがる「①落書きはけしからん②落書きは一種のコミュニケーションだ、という異なる意見を並べ、『あなたはどちらの意見に賛成ですか。また①②のどちらが説得力のある意見ですか』」という問いに対する白紙回答が日本で多かった、という話について、述べている。

それについて

「芸術表現をコミュニケーションとして認識する余裕のない大人だらけの国で、「落書きも一種のコミュニケーションだ」という意見もあることをいきなり試験問題の中で初めて知ったコドモが、それに面食らって白紙で回答したとしても、それは日本の教育そのものの責任ではないのか?」

・・・等々もっともっといろんなことを書いておられるのだが(面白いので、詳しくは「WB」vol.18ぜひ読んでください!)、思わず、目から鱗が落ちる気がした。

今どき日本で、落書き、って言うと何を思うんだろうね?

私にとって「学校の落書き」といえば、高校時代の想い出が脳裏に浮かぶ。

1つは、私の通っていた高校は、普通科と定時制が同じ校舎を使って、昼間と夜で開校していたのだが、一時期、自分の机を共有している定時制高校の子と机の上の落書きで、文通、というと大仰だが、ちょっとしたコミュニケーションがあった。進学校だった我々にとって、彼らの宿題は簡単だったので、時には代わりに宿題をやったりすることも。

また、隣のクラスの男の子もやっぱり、そういうことをやっていたようで、ある日、そこの教室を使って授業をしたときに「僕はシルベスタスタローンに似ています」と書いていたので、「誰だろう?」と思わず、見に行ったりもした。

・・・と、そういう机の上の落書きが1つ。

もう1つは、私が2年生のときだったかなぁ。全校の各所に私の似顔絵の落書きが出没したこと!

ある時はテニスコートいっぱいに、あるときは渡り廊下の黒板に。なかなか似ていて面白かったので、次はいつ出るのかなぁ、それと、誰が書いてるのかなぁ、と密かに楽しみにしていた。

うちのコドモが書いている絵ははたからみれば、確かに「落書き」だけど、当のご本人にとってはそれは「落書き」ではまったくないし、道路や壁の「落書き」だって、今どきなかなか見られやしない(なんせ、家の前の道路で遊んでいると、車が来たり、うるさがられたりする世の中ですから)。

あの問題では、「学校の壁」の落書きだったけど、もしかしたら、このPISAの試験を受けるようなお子様(とあえて書いちゃうけど)は、落書きを目にすることなどない環境で育っているのかもしれないよなぁ。

そういや、母校・早稲田大学について言えば、壁中落書きならぬ、チラシだらけである。あれを情報の洪水と見るか、コミュニケーションとみるか、景観を損なうゴミと見るか。そう考えると、早稲田の人間はPISAの問題を実感として捉えられるかもしれないねぇ。まぁ、最近は昔よりずいぶんと減ったけれどね。

というところから始まって、結局、あのPISAに対して回答できる力をいわゆる「技術」として身につけよう、という発想が、日本らしいよな、と。

もちろん、自分と意見が異なる他人と、正常かつ論理的に意見交換をして、結論を出す、という作業は、自分が働いている中で非常に多く見受けられる場面だから、その能力は必要だよな、と思う。

でも、一方で、その能力だけ身につけても、語るべきモノがなかったり、語っている内容が上っ面なかりそめのモノだったら、結局、その話は説得力がないわけで、そういうことを考えると、やっぱり、人間の中身そのものが豊かでなければ、何があってもしょうがないんだよな、と。

子供を育てていると、「スキルを身につけましょう」「今、身につけないと手遅れですよ」とあおり立てられるような情報に触れることも少なくない。でも、その根幹となる「感受性」や「人間性」については、方法論がないこともあるのだろうけれど、あまりその必要性が語られない。

感受性や芸術性、というと、とかく芸術方面、そして、結局は、絵を鑑賞したり描いたりするスキルや音楽を演奏するスキルのほうに話題が行ってしまっているような気がする。

例えば、木の葉さんは馬頭琴をやっているが、面白いことに、木の葉さんは、演奏スキルと言われたらお世辞にも上手、とは言えないのだが、彼女の人間としての豊かさが音楽性を高めているので、非常にいい音が出るし、人のこころを打つ演奏になる。

絵でも、音楽でも、写真でも、文章でも、なんでもそうだと思うが、結局のところ、「名手」と呼ばれる人の作品は、そのスキルどうこう、ということよりも、その「ナカミ」が勝負なんだと思う。もちろん、スキルがないことには話にならないけれど、スキルだけでもだめなのだ。

というわけで、うちのお子様方には、ぜひ、いろいろな体験をしてほしい。

もちろん、その体験を、絵や写真や言葉やいろいろな方法で人に伝えられる人になってほしい。

とりあえず知らんぷりしたり、冷やかしたり、コミュニケーションしたふりの事なかれ主義者には、なってほしくないんだよなぁ。

そういう人間は、もしかしたらこれからの世の中、ちょっとメンドクサイ存在なのかもしれないけれど、でも、そういう存在ってやっぱり必要だと思う。

そして、そういう意味では、ブンガクって必要な存在なんだよなぁ。
いま、なかなかブンガクが売れない世の中だけどね。
それに対して、一矢報いるぜ!が「WB」だと私は勝手に思っているのだが、でも、それですら、ゆっくり読む余裕が大人にないんだよね。だから「こどもWB」なのかな?もしかして。

私にとって「WB」は言ってみれば「脳トレ」。

今回はモブ・ノリオさんを取り上げたけど、インタビューで登場した野崎歓さんにもひらめくものあり。
たった16Pですが、あっちこっちに、なんというか地雷があって、「!」「!」ってなるんだよねぇ。
回を重ねて、だんだん読むほどに、味わい深くなってきた感じ。

そこで何かに針の穴がきゅっと開いて、そこを覗いてみようとすることで自分の世界が広がるのです。
まるで大学の授業みたいに。

・・・と思考が振り出しに戻ったところで、ようやく先ほど入れたジン(http://mamaru-vol1.blog.so-net.ne.jp/2009-11-28)がなくなった。

明日はパパが2週間ぶりに帰国するので「パーティの準備をするんだ」と長男は張り切っている。次男は今日通過した大きな公園に山登りに行きたいんじゃないかなぁ。パパは刺身が食べたいそうなので、ママは刺身を買いに行きたい。

・・・と、明日もなんだか忙しい1日になりそう。
朝思いついたことを思い出しながら記事を書いていたら思わず夜更かししてしまったがもう寝よう。

それでは、皆さん、お休みなさい!
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