触れる地球 [こどものおでかけ]
今夜は冷えたボンベイサファイアを小さなグラスに入れてのんびり飲んでいる。
ジンの香りは、かつて夜な夜な遊び歩いていた当時を思い出させる。
何軒目か・・・だいたい日付が変わる頃にどこかのBarに落ち着くと、ジンをロックで頼んでいた。
家では冷凍庫にタンカレーを常備していたが、外で飲むときはボンベイサファイアが多かった。
青いガラスが、薄暗い光に揺れ、丸く削った氷がカラコロと音を立てる。
グラスの中の液体を少しずつ傾けながら、誰かと語り明かす夜。
そして、夜明けの光の中を散歩しながら家に帰るのがまた好きだった。
少しの酔いとさわやかな朝の空気、そして、移り変わる夜明けの空。
そんな飲み方をする日がまたいつかやってくるのだろうか。
さて、今、母校・早稲田大学にて、フォトジャーナリズム・フェスティバル(http://www.daysjapan.net/waseda/)をやっている。
かつての私は戦争報道や報道写真の類は直視できなかったのだが、最近、気持ちが変わってきて、少しずつ、そういったものに触れる機会が多くなっている。そうした事実に向き合えるようになったということは、かつてより、少しは大人になったのだろうか。
先週から、来週にかけてがコア期間となっていて、いろいろなイベントをやっているのだが、昼間は仕事、夜は家庭、というわけで、結局、ほとんどのイベントに参加する余地がないのだが、展覧会は、期間中にはいつでも見られるのがありがたいところ。
先日、たまたま午後に少しばかり時間ができたので、子どもたちをつれて一緒に見に行ってきた。
フランス・バイユー戦争報道特派員写真賞の期間中、現地の街中は野外写真で盛り上がるそうだが、今回はその受賞写真を大学の構内各所に展示してあった。
モノクロームのもの、カラーのもの・・・大きく引き伸ばされた写真に切り取られた世界の現実。誰かが血や涙を流すその場面ではあるが、その切り取られた一瞬は、鮮やかで美しく、そして、深い悲しみがこころを打つ。
この地球のどこかで、涙を、血を、流している人がいる。
私たちと何の代わりもない、普通の人が。
そして、子ども達が--。
そうした現実が自分の前に提示されている。
物言わぬ、たった一こまの写真であるが、何よりも能弁に事実を語る。
そして、こころに現実を知らしめる。
中でもワセダギャラリーで5日まで開催中の「触(さわ)れる地球」の展示は、子どもたちにとっては、とてもこころに訴えるものであった。
先日でかけた新宿御苑(http://mamaru-vol1.blog.so-net.ne.jp/2009-08-24)にも、同じような触れる地球があったのだが、今回の展示のほうが、ビビッドに印象に残るしかけになっている。
地球に触ると、それが動いて世界の各地が手元にやってくるのは前回と同じだが、今回は連動して、データに組み込まれたDAYS大賞受賞作品やNGOやボランティア団体が世界中で活動する様子が映し出されるのだ。
我が家の子どもたちは、最初は、いろいろな世界が手元に来ることを純粋に楽しんでいた。
「あ、ここ日本だ」
「パパが今いるマレーシアだね」(明日帰国するけど)
「これがオーストラリア、シドニーだ!」
などなど・・・。
パパがあっちこっちにいくので、世界地図と地球儀を買った我が家。
また最近はアニメの世界でも、いろいろな国が出てくるので、世界もずいぶん身近にある。
今までは、そうやって場所を感じていただけだったが、今回はそこで起きている事実も表示される。
目の前で両親を殺害されて泣いている少女の姿。
ごみの山がある川の水を汲んで飲んでいる少年。
さまざまな写真が出てきた。
自分とは何も変わらない子どもが悲しげにしている。
長男は、その事実に気づいたのだ。
そして、「悲しい」と口にする彼に、私はこう伝えた。
---
でもね、私たちにもできることがある。
まずひとつは、知ること。
そういうことが起きていることを知ることが大事なこと。
そうすれば、そういう悲しい出来事が起きないように努力することができる。
それから、物を大切にすること。無駄遣いしないことね。
食べ物を粗末にしないこと。
---
今、自分が生きている中で与えられているものは当たり前のものではないこと。
満たされた環境にあることへの感謝と、そして、その意味を理解すること。
目の前に突きつけられた現実は悲しくこころを打つけれど、悲しむばかりではいけない、ということに、彼は、長男は気づいたようだ。悲しんでいた彼の表情が、ふっと変わった。
以来、長男は、時々そのことを口にするようになった。
悲しさ、というよりも、確かさ、といった表情で。
そういう意味では、今回、子どもたちにこのイベントを経験させることができたのは、これが映像ではなく、一枚の写真だったからなのではないかと思う。
音声や映像は、あまりにも強烈過ぎて、見せられないことがある。
切り取られた、ほんのワンシーンだからこそ、わかることがあるのだ。
ほんの短い時間だったけれど、我が家の子どもたちにとって、このイベントに出会えたことはきっと大きな糧になるだろう。
地球儀が、ほんの少し現実の地球に近くなり、そして、そこに息づく人々の暮らし。
世界にはたくさんの喜びもあるが、また一方で悲しみも、存在するということ。
これから、いろいろなことを感じて吸収していく子どもたち。
私たちが身近に感じるより、もっと近くに世界を感じて育っていくだろう。
だからこそ、知ってほしい事実がある。
殴られれば痛いこと。
そして、武器や戦争がもたらすもの。
リセットできるゲームとは違う現実の重さ。
そういったものをちゃんとわかっていれば、これから、いろいろなものに触れても、ちゃんと、真実を理解できると思うから--。
子どもたちと手をつなぎあい、帰る道のり。
切ない気分にはなったけれど、でも、手のぬくもりが暖かかった。
のんびりと毎日の暮らしを営めるありがたさと、命の暖かさを感じた秋の一日。
たまにはシリアスな日も悪くないな、と思いつつ、日常に戻っていったmamaru家でした。
ジンの香りは、かつて夜な夜な遊び歩いていた当時を思い出させる。
何軒目か・・・だいたい日付が変わる頃にどこかのBarに落ち着くと、ジンをロックで頼んでいた。
家では冷凍庫にタンカレーを常備していたが、外で飲むときはボンベイサファイアが多かった。
青いガラスが、薄暗い光に揺れ、丸く削った氷がカラコロと音を立てる。
グラスの中の液体を少しずつ傾けながら、誰かと語り明かす夜。
そして、夜明けの光の中を散歩しながら家に帰るのがまた好きだった。
少しの酔いとさわやかな朝の空気、そして、移り変わる夜明けの空。
そんな飲み方をする日がまたいつかやってくるのだろうか。
さて、今、母校・早稲田大学にて、フォトジャーナリズム・フェスティバル(http://www.daysjapan.net/waseda/)をやっている。
かつての私は戦争報道や報道写真の類は直視できなかったのだが、最近、気持ちが変わってきて、少しずつ、そういったものに触れる機会が多くなっている。そうした事実に向き合えるようになったということは、かつてより、少しは大人になったのだろうか。
先週から、来週にかけてがコア期間となっていて、いろいろなイベントをやっているのだが、昼間は仕事、夜は家庭、というわけで、結局、ほとんどのイベントに参加する余地がないのだが、展覧会は、期間中にはいつでも見られるのがありがたいところ。
先日、たまたま午後に少しばかり時間ができたので、子どもたちをつれて一緒に見に行ってきた。
フランス・バイユー戦争報道特派員写真賞の期間中、現地の街中は野外写真で盛り上がるそうだが、今回はその受賞写真を大学の構内各所に展示してあった。
モノクロームのもの、カラーのもの・・・大きく引き伸ばされた写真に切り取られた世界の現実。誰かが血や涙を流すその場面ではあるが、その切り取られた一瞬は、鮮やかで美しく、そして、深い悲しみがこころを打つ。
この地球のどこかで、涙を、血を、流している人がいる。
私たちと何の代わりもない、普通の人が。
そして、子ども達が--。
そうした現実が自分の前に提示されている。
物言わぬ、たった一こまの写真であるが、何よりも能弁に事実を語る。
そして、こころに現実を知らしめる。
中でもワセダギャラリーで5日まで開催中の「触(さわ)れる地球」の展示は、子どもたちにとっては、とてもこころに訴えるものであった。
先日でかけた新宿御苑(http://mamaru-vol1.blog.so-net.ne.jp/2009-08-24)にも、同じような触れる地球があったのだが、今回の展示のほうが、ビビッドに印象に残るしかけになっている。
地球に触ると、それが動いて世界の各地が手元にやってくるのは前回と同じだが、今回は連動して、データに組み込まれたDAYS大賞受賞作品やNGOやボランティア団体が世界中で活動する様子が映し出されるのだ。
我が家の子どもたちは、最初は、いろいろな世界が手元に来ることを純粋に楽しんでいた。
「あ、ここ日本だ」
「パパが今いるマレーシアだね」(明日帰国するけど)
「これがオーストラリア、シドニーだ!」
などなど・・・。
パパがあっちこっちにいくので、世界地図と地球儀を買った我が家。
また最近はアニメの世界でも、いろいろな国が出てくるので、世界もずいぶん身近にある。
今までは、そうやって場所を感じていただけだったが、今回はそこで起きている事実も表示される。
目の前で両親を殺害されて泣いている少女の姿。
ごみの山がある川の水を汲んで飲んでいる少年。
さまざまな写真が出てきた。
自分とは何も変わらない子どもが悲しげにしている。
長男は、その事実に気づいたのだ。
そして、「悲しい」と口にする彼に、私はこう伝えた。
---
でもね、私たちにもできることがある。
まずひとつは、知ること。
そういうことが起きていることを知ることが大事なこと。
そうすれば、そういう悲しい出来事が起きないように努力することができる。
それから、物を大切にすること。無駄遣いしないことね。
食べ物を粗末にしないこと。
---
今、自分が生きている中で与えられているものは当たり前のものではないこと。
満たされた環境にあることへの感謝と、そして、その意味を理解すること。
目の前に突きつけられた現実は悲しくこころを打つけれど、悲しむばかりではいけない、ということに、彼は、長男は気づいたようだ。悲しんでいた彼の表情が、ふっと変わった。
以来、長男は、時々そのことを口にするようになった。
悲しさ、というよりも、確かさ、といった表情で。
そういう意味では、今回、子どもたちにこのイベントを経験させることができたのは、これが映像ではなく、一枚の写真だったからなのではないかと思う。
音声や映像は、あまりにも強烈過ぎて、見せられないことがある。
切り取られた、ほんのワンシーンだからこそ、わかることがあるのだ。
ほんの短い時間だったけれど、我が家の子どもたちにとって、このイベントに出会えたことはきっと大きな糧になるだろう。
地球儀が、ほんの少し現実の地球に近くなり、そして、そこに息づく人々の暮らし。
世界にはたくさんの喜びもあるが、また一方で悲しみも、存在するということ。
これから、いろいろなことを感じて吸収していく子どもたち。
私たちが身近に感じるより、もっと近くに世界を感じて育っていくだろう。
だからこそ、知ってほしい事実がある。
殴られれば痛いこと。
そして、武器や戦争がもたらすもの。
リセットできるゲームとは違う現実の重さ。
そういったものをちゃんとわかっていれば、これから、いろいろなものに触れても、ちゃんと、真実を理解できると思うから--。
子どもたちと手をつなぎあい、帰る道のり。
切ない気分にはなったけれど、でも、手のぬくもりが暖かかった。
のんびりと毎日の暮らしを営めるありがたさと、命の暖かさを感じた秋の一日。
たまにはシリアスな日も悪くないな、と思いつつ、日常に戻っていったmamaru家でした。
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